2022/11/23
今までの経歴について/事故その後
今回は、過去のキャリアを振り返ってホームページの補足も兼ねて詳細な経歴を書いていこうと思います。
私がFPになった理由の続きの話にもなります。
主な実績は太字にしているので、経緯はすっとばして実績のみ確認したい方は太字を読んでください。
FPを目指そう!と思ってから半年間の勉強を経て、2級FP技能士(AFP)を取得します。
長いリハビリ生活で当時勤めていた正社員も退職し、派遣登録していた私は
せっかくFP資格を取得したことだし「金融業界で働いてみよう」そう思って数ある金融機関から銀行ならお金の近くで働けるかなと思い、りそな銀行へ派遣されます。
はじめての金融機関はとても楽しかったです。何千万というお金に囲まれて過ごす毎日はワクワクしました(笑)
担当していたのは後方事務とローカウンターです。主に預金(普通定期法人口座)通帳の作成等でした。
本当は資産運用の相談業務がやりたかったのですが、当時業務は縦割りで運用の相談をされても営業部へ引き継ぎをすることになっており、私が担当することは出来ませんでした。
そんな中、若さもあって派遣社員ながら部長や支店長に「資産運用のアドバイスがしたい」と伝え続けていました。
主張だけではなく日々の業務も「正社員よりも覚えてやろう!」と反骨精神で取り組んでいたと思います。
りそな銀行は信託銀行も兼ねており、宅建資格取得が推奨されていました。そこで私は上司へのアピールも兼ねて宅建を取得します。
それこそ毎朝6時からマクドナルドで勉強し、夜は日建学院へ通学し・・・努力が実って一発合格となりました。
部長も宅建取得を大変評価してくださって、営業部への移動と派遣契約から直雇用契約の話を本部に推薦をしてくれました。
本部との面接や健康診断も終わって移籍を待つばかり・・・だと思った2008年の8月頃、サブプライムローン問題で金融危機が騒がれ、その後リーマンショックが発生します。
とある朝、神妙な顔つきをした支店長と部長に応接室に呼ばれました。嫌~な予感がしましたね。
「本部から今朝連絡があって、移籍の話が白紙になったと伝えらえた、最後に梯子を外された。理由を聞いても答えてもらえない、申し訳ない」
そう伝えられました。頭が真っ白になりましたが、目の前にいる支店長や部長を責めるわけにもいかず・・・(今でも私を評価してくれて本当に感謝しています)
世界金融危機が直接の原因かどうかは不明ですが、そんな訳で営業部へ異動して資産運用のアドバイスをするという私の希望は砕け散りました。
しかしFPになりたいという目標は全くブレることなく、すぐに外へ目を向けることになります。
すると、三井生命(現大樹生命)のPMM(パーソナル・マネー・マネジメント)事業部というFP部署がアドバイザーの募集をしていることがわかりました。
すぐに会社説明会に出席します。そこで提案しているサービスの内容がFP本場の米国から輸入しているもの(当時Ameriprise Financial, Inc.と業務提携)だとわかり感銘を受けました。
採用試験に挑み、無事に採用となります。同期は34名!3か月の座学研修を経て、アドバイザーデビューとなりました。
そこからの約3年は楽しくて楽しくて・・・天職、なんて言葉が脳裏を過りました。寝食忘れて仕事に没頭した3年間でした。
在籍時には、上場企業でのセミナー講師をいくつも担当し、累計個別相談数は800件を超えていたと思います。
当然結果も出て、最短(2年)で上級職であるエグゼクティブ・アドバイザーへ昇格することが出来ました。(上位10%程度)
FP事業部とはいえ、生命保険会社ですから実績が全ての厳しい世界、34名いた同期はその頃には10名も残っていなかったと思います。
↑FPジャーナルに「わが社のファイナンシャルプランナ」として掲載
その頃CFP®も取得し、勉強すればするほど、自社商品しか提案出来ない事に疑問を持ち始めます。
またタイミング悪く(良く?)三井生命が投資信託の販売(金融商品取引業)を止めるという経営判断をします。
これによって、PMMサービス事業部では保険✕投資信託の両輪の片輪を失うことになるのです。良くも悪くもこの経営判断によって私は独立を決意します。
どちらかというと積極的な独立開業というよりも、環境に後押しされたものとなりました。
↑旧姓はナカジマでした。
「私は保険を販売したいのではなく、顧客のライフプラン達成のお手伝いをしたい。そして資産運用はそれに欠かせないものだ」
想いを実現するためには三井生命を離れて、独立するしか道がないと思いました。
殆ど準備期間なく独立したので、当然スタートは厳しいものとなりました。
初年度の年収は4分の1くらいになったと思います・・・。
次回へ続きます、ここまで読んでいただきありがとうございました。
この記事を書いたのは「梶原真由美」